目地棒のヒミツは
歴史的な大争議として有名なものだけでも、K争議、Tm亀戸工場争議、S製作所争議、Sm製鉄所争議などがある。
Tmの場合、デモ隊と警官隊が路上で大乱闘を繰り広げ、東京の下町亀戸の町はさながら市街戦の様相を呈していたと、記録に残っている。
以後、政府は欠食児童についての統計数字を出さなくなったほどだ。
数字が公表されなくても事態は容赦なく進行し、昭和九年(一九三四年)にいたって欠食児童の数はピークに達した。
岩手県では、昭和七年に三五二一九人だった欠食児童が九年の八月には六三○○人となり、十二月には九○○○人を超え、十年の一月にはついに一万人を数えている。
子どもたちと食べ物をめぐる、衝撃的なニュースが各地で報告されるようになった。
学校の朝礼の際に空腹のために倒れる児童が次々と現われ、腹が減るからと体操や唱歌の時トした学校も多々あった。
おにぎりを奪いあって掴みあいの喧嘩をする児童の話、ラジオから流された。
幼い弟や妹に食べさせたいために友達の弁当を盗んだ話が、Aは尋常小学校二年の男子で、家にはちゃんと両親あれども父は永年にわたる病身で充分に働けない。
母もまた血色すこぶる悪く、多分病身ならん。
一家には一定の職もなく又この寒中に燃料もなく、住まいは九尺二間の掘っ建て小屋で周囲を柴や茅で被っている」とラジオに載った。
秋田県仙北郡に坐めった生保内小学校からの報告書が、同書に残されている。
それによると、在籍児童四五○人のうち、昼食の弁当持参の者は四二六人、昼食を欠く者二四人。
昼食持参者の中で主副食とも持参する者四一○人、主食のみの者一六人。
持参者の中で、菜葉、木の実、野菜などを混ぜた混食を持参する者一八九人。
副食持参者の中でみると、味噌のみが一三人、漬物のみが一四六人、魚類一五七人、梅干九二人、その他二人、となっている。
凶作地の惨状を視察するために岩手県を訪れた社会学者のYK氏は、東北本線沼宮内駅付近で、村の子どもたちが食堂車めがけて残り物の食べ物を貰おうと殺到してきた光景を目撃していた。
沼宮内駅は、ITのふるさと渋民村(現・盛岡市)の渋民駅から北に向かって三つ目だ。
吹雪はつねに侵入して惨憎たるのだ。
「ボロで身を纏い、寒気に震えあがっているさまは誠に気の毒で目も当てられない。
以前学校において給食のため握り飯を与えたとき、この子はその半分を残して家に持ち帰り、親に与えていたが、今は茶碗盛にして与えているので持ち帰ることはできなくなった。
どうしても食うことはできぬため、学校から帰ればただちに乞食に早変わりしてあちこちとさまよって、食を乞うている。
子には兄が二人いたが、数年前に身売りして他に奉公に出ているが、家には一銭の送金もないようだ」。
「沼宮内の町はずれからものの一五分も走ると、両側の山々はますます迫ってきて、国道と並行した鉄道線路は急勾配で登ってゆく。
ぽつりぽつりと冷たい雨が降り出した。
しかし二十尺もある線路の堤の下には、すっかり急行列車の時刻を覚えこんだ村の子供らがそこここに五人、十人と固まって、列車の通過を待っていた。
この急坂に差しかかると前後に機関車をつけた列車は急に速力を落として徐行する。
食堂車からはかねて用意がしてあるとみえ、一つ一つナプキンに包んでボーイが(残り物を)投げている。
折り重なって争い拾う子供たちのうちには、一人で三つも拾うのがあるかと思うと、一つも拾えないで泣きだす子供もある。
この悲劇のなかに一羽の烏が飛んできて、飢えたる子供らのパンをさらっていく。
いずれ飢えたる烏だろう。
子供たちは力のない彼らの脚のつづく限り、進行する列車をなおも追いかけていく。
拾ったパンは、みな家に持って帰るらしい。
私たちが見ていたからかも知れないが、その場で食べるのは一人もいなかった」。
欠食児童に昼食を与えるため、国庫補助による学校給食が始まったのは、昭和恐慌のときからだ。
全国の欠食児童二○万という発表の後で、昭和七年(一九二二一年)九月に文部省は道府「山の向ふのにごった空からもう恐慌(パニック)が春といっしょにやってくる」と、そのころMjは手帳に書き残している。
「恐慌」の文字のワキに「パニック」とふりがなをふったのも、Mj自身だ。
天才詩人は、ふるさとを襲った経済の混乱を恐慌であると認識し、それは人々を奈落の底におとしいれるパニックなのだとはっきりとわかっていたのだ。
県に対して学校給食臨時施設方法に関する訓令を出して、公的な学校給食を開始する。
経費は二カ年で八八万。
児童一人当たり二年分の給食予算を四円とし、これを児童に現金で交付することは禁止した。
政府の措置は教師たちに歓迎され、各地でただちに実施された。
女性教師や用務員が予算内で工夫した献立を作り、欠食児童と見られる子どもたちに昼食を与えたのだ。
予算内では間に合わない地区もあり、学校がもっとも気を遣ったのは給食の対象となる児童を選ぶ作業だったという。
各県の学務部長から各小学校長に示された「学校給食実施要綱に関する達し」によれば「貧困なる者にして、昼食を携帯するを得ざる者」「日常摂取する食物が栄養上の見地から著しく粗悪と認められる者」がいちおうの対象となっていたようだ。
『岩手県教育史資料』によると、昭和九年十月の欠食児童数は五六六九人で、その中で四二二人が学校給食を施されているが、一五五七人には与えられていない。
給食を必要とする児童数が多かったために、経費の面でも手配の面でも実情には追いつかなかったのだ。
国の経費が足りなくなると、小学校の先生たちが自ら俸給の百分の一ずつを拠出して給食費に当てた。
だが、それにも限界があった。
山形県最上郡のある小学校では、昭和九年十月になると、午後の学校には児童の姿が見えなくなった。
弁当を持って登校できない子が全部といっていいほどに多くなり、彼らは学校は昼までにして家に帰り、子守り、草刈り、木の実拾いなどのほか、家の手伝いをするしかなかった。
高等小学校の生徒は、体も大きくなっていたので、昼からは土方仕事に出かけていくことが多かった。
食糧に窮した農民は、草根木皮をあさるため、山に入っていった。
山の中で、クリ・キノコ・栃の実・楢の実などを集め、食用になる野生の草根を掘り出して冬の貯えとした。
最上郡及位村では、村人総出で栃の実だけで一二○○石もの量を集め、その脱渋法を研究した専門家が講演会を開いて歓迎された。
その成果は「及位式栃の実の実利用法」として、全国各地に広まっていったという。
けっして美味しいもの、とは思えないが、その方法を紹介しておこう。
恐慌下ではこんなものまで食べていた、という悲しい実例である。
「まず栃の実を三日間水漬けにして殺虫する。
それを三○分にわたって煮沸し、その後鴇き砕いて飾にかけ、袋に入れてさらに五○分煮沸する。
それを水洗いして渋を流し、搗き固めて餅とする」。
米が足りなくなると「かてめし」を食べた。
「かてめし」とは、米に他のものを混ぜ込んで炊いたもので、じゃがいも、大根、大豆、小豆入りの「かてめし」は、まだいいほうだった。
やがて米がなくなり、南瓜が主食となっていく。
不作の農家には免税措置が講じられた。
昭和九年十月、山形県新庄税務署だけで、二一万二○○○筆、二二一○○町歩の免税申請が出された。
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